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zoom RSS 紅茶の国スリランカで、紅茶とともに生きる人たち <1>コロンボの紅茶輸出業者たち@

<<   作成日時 : 2016/01/26 21:32   >>

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 スリランカの紅茶関係者15人に対し、2003年から2008年にかけて行なったインタビューを、本日から1人ずつアップロードしていく。その後、勤務先や役職が変わった人もいれば、会社や組織に変化が生じている場合もあるが、インタビュー時点での状況としてそのまま掲載する。
 スリランカの大規模農園は1970年代に国営化され、1990年代に再び民営化された。国営化前(主としてイギリス資本下での紅茶生産)、国営時代、再民営化後を経験されてきた方たちが、現役で働いている間に話を聞くことができた、貴重なインタビューではないかと思う。


<1>コロンボの紅茶輸出業者たち
@マイケル・J・デ・ゾイザ

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1946年9月30日、コロンボ生まれ。セント・トーマス・カレッジ卒業後、1966年2月1日からリプトンで研修生として働き始める。紅茶部門のマネージャー、ディレクターを経て、95年にユニリーバ・セイロン社のマネージング・ディレクターとなる。また、1983年から2000年までの17年間中、15年間コロンボ・ティー・トレイダーズ・アソシエーションの会長を務める。2001年に突然携帯電話会社に転職したが、2002年1月から紅茶業界に復帰し、ジョン・キリス社グループのゴードン・フレイザー社の再活性化に取り組む。

 私はまず、ロイヤル・プライマリー・スクール、次にキャンディのトリニティ・カレッジで学び、1956年9月から1958年12月まで、英国のケントの海の近くの小さな町ハーンベイにあるエディントンハウススクールに行きました。そのあと、コロンボに戻り、12歳でセント・トーマス・カレッジに入り、同校を卒業しました。英国に2年強行っていたのは、母親の考えによるものです。パブリックスクールに入るための準備校であるプレップスクールに入ったのですが、母親は、私を2年強イギリスの学校に行かせてみて、そのままイギリスの学校に進ませるより、スリランカに連れて帰った方がいいと判断したので、帰国し、セント・トーマス・カレッジに入りました。

 学生時代からクリケットが大好きでした。ボーイスカウトにも入っていましたし、セント・トーマス・カレッジではラグビーもやっていました。それから、自転車も大好きで、コロンボからヌワラエリヤまで自転車で往復したこともあります。これは、やったことがある人はあまりいないですが。

 卒業後、学力試験のAレベルを受験し、試験の結果を待っている時に何社か就職活動も行ない、リプトンが研修生として採用してくれたので、1966年2月1日からリプトンで働き始めました。19歳のときでした。紅茶の包装工場、輸出、経理などの業務を学び、われわれ研修生は紅茶部門に配属されました。研修期間は6カ月で、1978年に紅茶部門のアシスタント・マネージャーに、1982年にマネージャー、1985年に、ディレクターになりました。1992年に、リプトンとブルックボンドの両紅茶ブランドのティーディレクターになり、1995年にマネージング・ディレクターになりました。これがリプトンでのおおよその職歴です。私が勤務していた1970年代にリプトンブランドがユニリーバグループに買い取られ、1980年代にブルックボンドもユニリーバの傘下に入りました。そのため、私はこの2つのブランドのティーディレクターになったのです。

 リプトン在職中には、いろいろな経営コースを受講しました。ユニリーバ社では、ジュニア、シニア、ゼネラルマネージャー向けにいろいろな研修コースがあるので、それらを受講しました。また、1973年にイギリスのリプトンで3カ月、75年にインドのカルカッタ(現コルカタ)に6カ月、1985年にインドネシアに6カ月勤務しました。また、1977年以降は海外に行く機会が増え、英国、ケニア、インドでのティーコンベンションや、ローマでの国連食糧農業機関(FAO)の会議などに参加しました。その間に、商談でもヨーロッパ、ドイツ、アメリカ、日本にも行きました。特に、日本には一番頻繁に、20年間ほぼ毎年行きました。英国にもほぼ毎年、アメリカには1年おきくらいに行きました。これは、ユニリーバ社のティーグループの会議が、通常、1年おきにいろいろな国で行なわれるためで、ケニア、ロンドン、インドネシア、インドなどでの会議に出席し、ユニリーバ関係者はもちろん、そのほか紅茶の貿易に携わる世界中のたくさんの人たちと出会いました。

 またスリランカでは、1983年から2000年までの17年間のうちの15年間、コロンボ・ティートレイダーズ・アソシエーション(CTTA)の会長を務めました。会長として在任中は、政府組織であるスリランカ紅茶局にも関わりましたし、商工会議所の委員は今も務めています。またスリランカでは、国際紅茶コンベンションを92年、94年、99年、2003年に開催し、そのすべてで実行委員または実行委員長を務めました。それ以前にスリランカで紅茶コンベンションが行なわれたのは、1967年だったのです。これが私の大まかな経歴です。

 私たちの世代では、いったん職を得たらそれが一生の仕事と考えていましたし、会社の中で昇進していきたいという希望を持ち、できるだけ高い地位まで登りつめたいと思いました。リプトンに入って数年後には、リプトンは、海外勤務の可能性もあるし、海外出張も多いので、いい会社だと思うようになり、一生懸命働いて、トップまで行きたいと思い、それはほぼ達成しました。ただ、海外勤務については、他国で何年も勤務すると、コロンボではトップに立てないと言われていたので、3〜6カ月ほどの短期間の海外勤務だけを選びました。

 コロンボにいる間は、クリケットもよく楽しみました。約20年間、スリランカで有数のクラブに所属し、国家レベルのクリケット運営委員会に入り、約10年間務めました。また、テレビやラジオのクリケット中継の解説も約10年間務めました。ただ、ティーディレクター、マネージングディレクターになってからはなかなか時間が取れなくなってしまいました。それでも、クリケットは趣味であり、情熱であり、いつも関わってきたことです。選手としてプレーするだけではなく、運営やクリケット関連のさまざまな行事にも携わってきました。

 スリランカで1980年代後半の民族紛争時に、あちこちで殺戮があり、農園のマネージャーも多数殺害され、実業家たちにはビジネスをやめろという脅迫がありましたが、紅茶の輸出は決して停止せず、紅茶オークションもずっと続けられました。私はCTTAの会長でしたから、殺害の標的になってもおかしくなかったのです。

 先ほども言いましたように、一度得た仕事は一生のものと思っていました。関心を持って続けてきましたし、仕事の中でいろいろな楽しさ、喜びを見い出してきました。仕事の中で満足感を得ることができ、幸せでした。

 しかし、入社して34年後の2000年に、ユニリーバ社を辞めました。というのも、そこから先のポジションに進める見込みがなかったからです。5年間マネージング・ディレクターを務め、ユニリーバ・セイロンの重役の一員でもあったのですが、約束されていたその先のポスト、副会長や会長にはなれなかったし、ユニリーバ社は紅茶事業全体の構造や展望を次々に変更していったので、不満がつのっていったのです。そこで、ユニリーバ社を辞めて紅茶から離れ、全く別の仕事に就くことにし、1年半、香港系の携帯電話会社に務めたのです。

 けれども、携帯電話産業というのは、非常に熾烈な世界でした。紅茶産業と比べると、仕事上のノルマや、特有の慣習や倫理感などの面で全く異なるので、入って6カ月後にはもうすっかりうんざりし、辞めることを考え始めました。そこで、ジョン・キリス社や、その他の紅茶関連の会社と交渉を始めました。なんとか携帯電話会社から円満に退職することができたので、2002年1月からジョン・キリス社で働き始めました。

 同社の傘下のゴードン・フレイザー社を再生・再構築し、既存のボザンケット・スクライン社と一体化させ、今日に至っています。ユニリーバ社時代の同僚2人と共にこの会社に移ったのですが、その目的は、セイロン紅茶に付加価値をつけて販売していくことです。

 ユニリーバ社で働いていたときの一番の不満は、ユニリーバ社ではセイロン・ブランドを販売することに関心がなく、国際ブランドとして販売する戦略をとっていたことです。その国の嗜好に適したユニリーバ社ブランドの紅茶を販売する、というわけです。そのため、ピュア・セイロン・ブランドはあまり重視されていませんでした。私はいつでもピュア・セイロン・ブランドをつくりたかったので、ゴードン・フレイザー社への転職は、いいチャンスだったのです。

 われわれは独自のブランドを発売する準備を進め、2つのブランドを発売しました。ひとつは国内マーケット向けのラン・カハタで、これはゴールデン・ブリューという意味です。もうひとつはフレッシュ・ソーツ、これは02年10月に正式に発売したブランドです。このフレッシュ・ソーツは、海外市場でも販売していきたいと考えています。このブランドは、必要であれば、いろいろな原産国の紅茶をブレンドしますし、ピュア・セイロンのブレンドでもつくります。このブランドを拡大させていきたい。アールグレイ、カモミールティー、レモンティーなど、将来的にはすべての種類の紅茶のアイテムを揃えたいです。

 個人的にも紅茶は好きです。イギリスの植民地時代に始まった大規模農園での紅茶生産は、民間の産業から1970年代にいったん国営化され、それにより停滞した面もありますが、90年代に再び民営化されました。その間に、個人経営の小農家系が台頭し、現在では小農家系が60〜70%の紅茶を生産しています。大規模農園から始まったスリランカの紅茶産業は、今では完全に変わってきているのです。大規模農園も、民営化されてから経営面も紅茶の品質面も改善されてきました。肥料管理や、改植、隙間を埋めたり、工場を改良し、中にはISOや、5Sの認証を取得した工場もあります。

 紅茶は私の人生に、確固たる社会的地位を与えてくれ、また喜びをもたらしてくれました。というより、自分で一生懸命働いて、それらを手に入れてきたのだと思います。紅茶会社で働いている間に結婚し、2人の娘が生まれ、上の娘はアメリカに留学させましたし、下の娘はオーストラリアに留学中です。もし紅茶会社で働いていなかったら、娘たちを留学させるだけの収入は得られなかったでしょう。ですから、一生懸命に働いて自分の人生に投資し、その結果、見返りも多く得てきたといえます。

 友人もたくさんできました。ただ、私は間違っていると思ったらそれをはっきりと言うので、例えそれが真実であっても聞きたくないという人もいますから、敵も何人か作ったかもしれません。もっとも、私のことをよく理解してくれている人たちは、私が悪意から言っているわけではないということをわかってくれていると思います。


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