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zoom RSS 紅茶の国スリランカで、紅茶とともに生きる人たち <2>紅茶生産の現場から@

<<   作成日時 : 2016/01/30 15:34   >>

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<2>紅茶生産の現場から
@ヴィジ・ジョンピレイ

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1952年、キャンディ生まれ。母方の祖父、母親の兄弟、兄も茶の栽培および紅茶製造に従事するティープランターだったため、茶園の仕事に興味を持ち、自らもティープランターとなる。サー・トーマス・リプトン卿が愛したウバ地方ハプタレ地区のダンバテンネ茶園には3期間勤務した経験があり、敏腕マネージャーとして知られる。

 私は、生まれたのはキャンディですが、警察官だった父の仕事の関係でコロンボに移り、コロンボのセント・ジョゼフ・オブ・カレッジを卒業しました。

 なぜティープランターになったのかというと、私の母の父親、つまり母方の祖父がティープランターだった影響が大きいです。祖父はスリランカ南部のデニヤヤ地方の茶園で働いていました。祖父の息子たち、つまり私の母の兄弟のうち2人もティープランターになりました。ですから、学校が休みのときにはよくデニヤヤの茶園に遊びに行っていましたし、茶園の仕事に興味を持つようになりました。私の兄もティープランターです。

 私が紅茶業界に入ったのは、1971年です。まだプランテーションが国営化される前で、まずスコティッシュ・ティー・アンド・ランズ社に入社しました。同社の茶園を運営するスリランカのエージェントは、カーソンズ社でした。入社後、まずスリランカ高地のマドゥリシマ地区のマハドゥワ茶園の研修生になりました。マドゥリシマ地区は、高地の紅茶生産地の東の端に当たり、マハドゥワは規模の大きい茶園です。そこでロニー・モノウィラ氏という、当時は若手の優秀なスリランカ人マネージャーの指導を受けました。彼もプランター一家の出身で、彼の父親を始め、家族、親戚にもプランターが多い家系でした。

 1971年から4カ月、マハドゥワ茶園で研修生として働き、次にハプタレ茶園に異動しました。ハプタレ茶園にいたときに、プランテーションが国営化されました。国営化されたのは1975年で、私は1978年12月までハプタレ茶園にジュニア・アシスタント・マネージャーとして勤務していました。1979年に、同じハプタレ地区のダンバテンネ茶園にシニア・アシスタント・マネージャーとして着任しました。ダンバテンネ茶園では、当時、茶樹の改植作業を進めました。1979年にダンバテンネに来た当時は、紅茶の生産性はわずか760kg/haでした。そこで、われわれは大規模な改植作業を行ない、たくさんの老木を抜いて新しい茶樹を植え、私が担当しただけでも約300エーカー、およそ150haを植え替えました。

 1983年8月にマネージャーに昇進し、ディンブラ地方のワタゴダ茶園に移りました。そのときは、ダンバテンネ茶園もワタゴダ茶園も国営のスリランカ・ステート・プランテーションズ・コーポレーション(SLSPC)の傘下に入っていました。ワタゴダ茶園の次に、ヌワラエリヤのエディンバラ茶園に4年、グラッサウ茶園に3年勤務しました。1990年に、再びダンバテンネ茶園にマネージャーとして戻りました。そのときは、民営化に向けてプランテーションをグループ分けするための査定が行なわれていた時期で、6カ月だけ勤務しました。1990年7月にタラワカレ地区のセント・クレア茶園に異動し、3年間勤めました。

 その間の1992年に、スリランカのほとんどの大規模プランテーションは再び民営化されました。セント・クレア茶園はマスケリア・プランテーションズ社に入りました。マスケリア・プランテーションズ社は当初、フォーブス&ウォーカー社が中心になったウバ-ウエスタン・プランテーションズ社が運営会社でした。その後、1993年にウバ地方のプーナガラ茶園に移りました。プーナガラ茶園ではCTC製法への転換という大きなプロジェクトが計画されていた時で、94年1月から転換が始まり、94年9月に転換作業が完了し、CTC製法での紅茶生産が始まりました。これは、私たちにとって新しい試みでした。CTC用の機械類も、製茶技術も、初めて経験するものでした。

 1999年の終わりにプーナガラ茶園を離れ、再びダンバテンネ茶園に戻りました。詳しく言うと、短期間ハプタレ茶園に勤務し、それからダンバテンネ茶園に移ったのですが、それは、私にとってまた新たな挑戦でした。プランテーション会社を変わって、新しいことをやりたかったのです。というのも、プーナガラ茶園でやるべきことは充分やったという自負があったからです。プーナガラ茶園はもともと生産性が低く、赤字経営の茶園でしたが、それをCTCに転換して利益が出るまでに改善しました。

 1999年に、アグラパタナ・プランテーションズ社から、「ダンバテンネ茶園に来ないか」という話があったので、その申し出を受けることにしたのです。そのとき、ハプタレ茶園のマネージャーが不在で、ダンバテンネ茶園の前マネージャーが異動するまで待たなくてはいけなかったので、まずプーナガラ茶園からハプタレ茶園に移り、その1カ月後にダンバテンネ茶園に来たのです。

 ダンバテンネ茶園で1979年から1983年にアシスタント・マネージャーとして働いていたときに、茶園管理についていろいろなことを学び、新しい茶樹をたくさん植えました。ここは、ポテンシャルの高い茶園なのです。今は生産性も上がり、2000kg/haありますし、生産量も増えてきているので、ダンバテンネ茶園に戻るのはうれしく、故郷に帰るような気持ちでした。

 同時に、ここで私にとってまた新たな挑戦をしたかったのです。まず、製茶工場の改善です。機械類を新しくして、工場を近代化し、ISOとHACCPの認証を取得したいと考えています。取得までにはかなり長い時間が必要だと思いますが、2003年からHACCPの取得に向けて動き出す予定で、02年10月から研修を始めています。また、さまざまな改良を推進し、かつてリプトン卿が愛した古い茶園を、最高レベルの茶園にしたいと思っています。実はダンバテンネ茶園の紅茶の価格は低迷しており、品質としても充分に良いとは言えませんでした。けれども、今は大分よくなって、BOPでもBOPFでも、ウバ茶としてオークションの最高価格をつけることがあります。また2002年上半期では、当社のプランテーションの中では一番の利益を上げることができ、うれしく思っています。

 また、私はハプタレ周辺が好きなのです。気候もよく、景色も美しいですし、住むにもいいところです。自分の家はコロンボにありますが、将来的に茶園の仕事から引退したら、ハプタレからそれほど遠くないバンダラウェラに住みたいと思っています。コロンボの家は、子供たちのために必要ですが、私と妻のアエシャは、コロンボではなく、バンダラウェラに住みたいと考えています。

 子供ですか? 私には娘が2人、アエシャにも娘が2人います。どういうことかというと、まあ、合計で4人の娘がいるわけですが、お互いに再婚だったのです。アエシャの上の娘は医者を目指しており、下の娘はエンジニアを目指しています。私の上の娘は、コンピューターテクノロジーのマネージメントを目指していますが、下の娘はまだ何になりたいか決まっていません。

 私は民族としてはスリランカ・タミル人で、カトリック教徒です。母はスリランカ北部のジャフナの生まれで、父は東部のバティカロアの出身です。私が生まれたのはキャンディで、アエシャはバドゥラの出身です。アエシャはシンハラ人で、仏教徒です。でも、私たちは大変うまくやっています。スリランカでの民族紛争についてはニュースなどで聞いていると思いますが、あれは個人レベルではなく、政治的な問題です。

 プランテーションのマネージャーとしては少数派のスリランカ・タミル人であることで、不利を被ったことは全くありません。なぜなら、私は自分自身の力で働いてきたからです。正直で、誠実でいるように努め、一生懸命働いてきたと自分でも思っていますし、不当な扱いは受けませんでした。少なくとも、私はそういう差別を感じたことはありません。私はいつもみんなに言うのですが、私は紅茶輸出業者にもたくさんの友達がいるし、そのほかの分野で活躍している友達も多いので、何かしたいときに助けてくれる人がたくさんいます。自分がやりたいと思ったことは、ほとんど実現させてきました。われわれは、他の民族をまったく違う人たちとは見ていません。宗教についても、仏教徒であろうと、カトリック教徒であろうと、ヒンドゥー教徒であろうと、何ら問題はありません。大切なのは寛大さであると、私は教えられてきました。

 私の母語はタミル語です。スリランカ・タミルが話すタミル語と、茶園の労働者の多数派であるインディアン・タミルが話すタミル語とは若干違いがあります。実際には、私のタミル語は両方が混ざっています。茶園の労働者と話すときと、親戚と話すときでは、言葉遣いを変えます。つまり、両方のタミル語を使い分けられるということです。シンハラ語は学校で学びました。シンハラ語も話せなくてはいけないし、英語も話せなくてはいけない。話せるようになるのは自然なことで、必要であれば覚えるものです。少しずつ覚えていけばいいので、そんなに難しいことではありません。また、しゃべることができて、読むことができれば充分で、書けなくても構いません。私も、シンハラ語はあまり早くは書けません。読んだり書いたりはちょっと難しいですけれど、会話する分には全く問題ありません。シンハラ語で何か講演をしてくれと言われれば、それもできます。茶園のスタッフはシンハラ人が多いですが、仕事では英語を使います。茶園の運営スタッフには、英語ができる人が選ばれますから、基礎的な英語力は非常に重要です。

 スリランカでプランテーションの開拓が始まった当初、どのように労働者を集めたかを知っていますか? 昔はカンガーニという職種の人がいて、南インドから労働者を連れて来ていました。カンガーニは、自分が連れてきた労働者たちの責任者でもあったのです。そのカンガーニは、ヘッドカンガーニと呼ばれ、労働者を連れてきて、その労働者の賃金の一部がヘッドカンガーニに手数料として支払われていました。つまり、労働者が日給ベースで何日か働くと、その一部がカンガーニに支払われるのです。ですから、100人の労働者を南インドから連れてきて、その100人がよく働けば、カンガーニもいい収入を得られたのです。もし、あまりよく働かない労働者を連れてきてしまうと、カンガーニの収入も少なくなるわけです。それがカンガーニへの支払い方法で、奨励金のようなものでした。このヘッドカンガーニ制度は、1975年くらい、プランテーションが国営化される頃まで続いていました。労働者に対して、カンガーニがいろいろな責任を負っていました。このヘッドカンガーニ制度は、今はもうなくなりました。古いカンガーニたちがプランテーションを去った後は、新たに労働者を連れてくるカンガーニはいなくなりました。今、茶園で働いているカンガーニは、労働者の中から昇進した人たちで、労働者が茶摘みや台刈り、除草作業などの仕事をするときに監督をする役割を担っています。

 今のカンガーニには、タミル人とシンハラ人の両方がいます。シンハラ人の労働者は3%程度ですが、彼らにはシンハラ人のカンガーニがつきます。彼らは何年も前に茶園に来たのですが、今では結婚などで混血も進んでいます。今、ダンバテンネ茶園には4026人が住んでいます。これが総人口です。茶園の労働者の婚姻は、まずこの茶園や近くの茶園に親戚関係があるので、そこでお見合い結婚するケースが多いですね。ときには恋愛結婚もあるし、駆け落ちもあります。マネージャーが双方の家族を呼んで説得することもあります。しかし、ほとんど結婚は親や親戚が決めています。別の茶園の人と結婚することもありますが、ひとつの茶園の中で結婚していっしょに働けば、それだけ家族の収入が多くなります。

 茶園の労働者が不足しているときは、募集広告を出し、働きたいと応募してくる人がいたら面接をします。特に問題がなく、真面目な人であれば採用します。アシスタントマネージャーや製茶工場の技術者などのスタッフメンバーは、全く別に採用され、異動も多いです。茶園で茶摘みをするのは女性が多いですが、スタッフメンバーの奥さんが茶摘みをすることはありません。
 
 引退後は、コロンボに住むのは、暑いし、人が多過ぎてイヤなので、バンダラウェラがいいですね。5エーカーほどの茶畑をつくって、大切に栽培し、またアエシャは家の中をいつもきれいにしているし、料理上手なので、小さな茶畑のあるゲストハウスをやりたいと思っています。これが、今考えている将来のプランです。引退したら、小さな場所でそんな暮らしをしたいですけれど、実現するのは多分10年後くらいでしょうね。ただ、今から少しずつ準備を始めないと、実現できませんから。

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