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zoom RSS 紅茶の国スリランカで、紅茶とともに生きる人たち <3>生産と流通をつなぐティーブローカーA

<<   作成日時 : 2016/02/07 16:36   >>

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<3>生産と流通をつなぐティーブローカー
AAさん


1945年、コロンボ生まれ。紅茶ブローカーに長年勤務してきたAさんは、1990年代、スリランカでの事業展開を目指した日本企業にヘッドハンティングされた。しかし、その企業の多方面への投資や、着手したさまざま事業は、成果が上がらぬまま全面撤退となった。名前と顔写真は公表しないという約束で、Aさんがその企業と関わったいきさつを語ってもらった。

 私は35年間、紅茶ブローカーに勤めていました。まず、1964年に、デ・シルバ・アベイワルダナ&ピリス社に入り、1972年まで勤めました。ブローカーに入ったのは、父親に勧められたからです。父は、すでに他界しましたが、通信省に勤めていました。父と母が結婚したのは1942年のことです。父は結婚後に通信省に勤めるようになり、コロンボ商工会議所の電話のブースを担当していました。1940年代ですから、英国人たちが馬に乗ったり、人力車に乗って、商工会議所で毎週行なわれる紅茶のオークションにやってきていたわけです。父はそれを見て、オークションで紅茶を販売するティーブローカーはとても格好いい職業だと思ったそうです。学生時代に、父から「ティーブローカーはいい仕事だ」と聞かされていたので、私はブローカーのティーテイスターになりたいと思い、一生懸命勉強し、スポーツにも励み、優秀な成績を修めました。卒業時には、父の影響もあり、ティーテイスターを志望しました。また、デ・シルバ・アベイワルダナ&ピリス社に勤めている先輩がいて、私たちの学校にクリケットのコーチとして来ていたので、その人から、「同じ会社に入って、いっしょにクリケットをやらないか」と誘われ、そのブローカーに入ったのです。

 1972年に、同じくティーブローカーのジョン・キリス社の当時の会長から「当社に来ないか」と誘われたので、転職し、1985年までジョン・キリス社に勤めました。1984年に、新しいブローカーのマーカンタイル・プロデュース・ブローカーズ社という会社が設立されました。そこからも勧誘を受けたのですが、最初は断りました。けれとも、新しいブローカーをつくっても、なかなか顧客を得られなかったので、1年後にまた社長が私を誘いに来たのです。私は、紅茶生産者の顧客から信頼され、私にオークションで紅茶を売って欲しいと言われていたので、やはり来て欲しいと、以前より格段にいい雇用条件を出してきたので、移ることにしました。けれども、ジョン・キリス社は雇用者全員との雇用契約の中で、同社を辞めた後の3年間は同業他社では働かないという項目を設けていました。私がマーカンタイル社に移った後、これは契約違反だと、ジョン・キリス社は裁判を起こしました。裁判所でも、これは禁止事項なので、私はマーカンタイル社で働いてはいけないと判断されました。そこで、3年後からマーカンタイル社で働くことになったのです。けれども、マーカンタイル社の社長と政府や中央銀行との間でトラブルが起こり、それがブローカーの業務にも影響を与え、取引量が減ってしまいました。そのような事情があったときに、私はフォーブス&ウォーカー社から声をかけてもらったので、1992年に同社に移りました。

 1995年頃、ある日本企業の方が私を訪ねてきました。私の友人を介して来られたのですが、その会社については、私は当時、何も知りませんでした。ただ、「スリランカで紅茶関連の事業を始めたい」という話だけは聞いておきました。その後、スリランカ支社をつくり、紅茶の事業を始めていたのですね。その1〜2年後に、「ティーブローカーをやりたいので、来てくれないか」とまた訪ねてきたのです。その日本企業と私の名前をつけた新会社を設立し、ブローカーをやりたいというのです。好条件のヘッドハンティングでしたので、やってみようと思ったという、それだけの話です。その日本企業を過信していたというわけではありません。また、当時、フォーブス&ウォーカー社の社内でも問題が起こり、幹部の何人かは別のブローカーに移ったので、私も新会社に移ることにしたのです。新設するブローカー用にオフィスも用意され、事業認可も取得しました。マーカンタイル社時代の友人も加わり、2人でやっていくことにしたのです。運が良かったというべきか、それ以外のスタッフはいなかったのです。

 私も詳しい事情はよくわからないのですが、その後で私が聞かされた話は、日本の本社がスリランカへの投資をすべて打ち切ったということです。スリランカ支社を設立して2〜3年後だったと思います。ブローカー用の会社を設立し、認可を受け、人も採用したけれど、まだ事業そのものは開始していませんでした。けれども日本の本社から、スリランカでの事業には、これ以上の投資はするなという通達があったのです。ブローカーを始めるに当たり、銀行へ支払う保証金が必要だったのですが、それも払えなくなりました。私には、その理由について詳しい説明はありませんでした。ただ、他の事業への投資がうまく成果を上げていないので、日本の本社はもうこれ以上投資はしないと決定したのです。

 私は板ばさみになってしまいました。これからどうしたらいいものかと考えていたときに、ある日スリランカ支社の幹部がやってきて、「もう給料も払えない」と言ってきました。多分、その会社に移って1年後くらいだったと思います。「ブローカーを始めたい」というから、それまでの会社を辞めてきたのに、私はどうしたらいいかわからず、弁護士に相談し、訴訟を起こしました。

 事情聴取や手続きが続いているところに、私の昔からの友人で、日本に住んでいたWさんがスリランカに来ました。Wさんはその日本企業の人たちをよく知っていたので、スリランカ支社の後始末を頼まれ、1999年にコロンボに来たのです。Wさんは、私にその後始末をいっしょにやってくれと頼んできたのです。Wさんからの依頼とあって、私はスリランカ支社に戻るという形にし、スリランカで今までやっていた事業の整理、現状の把握、撤退後の処理を手伝うことにしたのです。

 スリランカ支社には、最盛期には80〜100人の従業員がいたようです。コロンボの高層ビルのトレードセンターに支社を構えていましたが、その支社ももっと家賃の安い場所に移しました。今は社員は6〜7人しかいないでしょう。もうこれ以上の投資や事業はしないと思います。私が辞めるときまでには、少なくとも日本の本社では、スリランカ支社の状況や、資金がどこにどう流れていったのか、把握できたようです。

 スリランカ支社長だった日本人は、日本でも自分でお茶を始めいろいろな事業を手がけていたと聞いていましたし、スリランカでもお茶の事業を展開したいと言っていました。意欲があるのはいいのだけれど、ひとつひとつをきちんとフォローアップしていけなかったのです。支社の中には優秀な人材もいたのですが、何かをやろうとするとすべて日本の本社の許可が要るので、本社とのやりとりも難しかったと思います。

 スリランカ支社ではあちこちの事業に投資していたので、それらを打ち切り、回収できるものは回収していきました。日本の本社からも何人か来ました。茶園の経営会社もつくりましたが、それも手を引くので、その茶園の経営を引き受けてくれる企業を探しました。ディンブラ地方ハットン地区の私有の茶園と紅茶工場を買い、そこに緑茶工場を建てていました。緑茶の生産も始めたのですが、ほとんど売れずに在庫になっていました。私がそのスリランカ支社に戻ってから、スリランカでは以前から緑茶生産を手がけているジェームス・フィンレー社に、緑茶の在庫の半分強を買ってもらいました。

 他にも、アーユルベーダ、観光業など、いろいろな事業に手を出していましたが、すべてダメでした。日本人の支社長は、茶園経営にずいぶん興味を持っていたようですが、もしもっといい技術者、経験豊富な専門家と組んでいたら、うまくいったのかもしれませんが。

 私はブローカーをやりたいということで雇われたのですが、それは私にとっても悪い話ではありませんでした。ちょうどフォーブス&ウォーカー社の社内で問題が起こっていた時期でしたし、自分にとっては、今までの自分の経験や技術を生かし、自分もパートナーとなって新しい会社を興して仕事ができるなら、私の人生の最後の職場として、それもいいかなと思ったのです。投資を打ち切ると言われるまでは、それなりに準備を進めてうまくいっていたのです。

 当初は資金もあったし、いい人材を集めていたので、うまくいくはずでした。緑茶の生産は、海外投資案件だったので、最低90%は直接輸出しなくてはいけないという条件で許可を得て作った工場でした。ですから、基本的には緑茶のオークションは必要なかったのです。私は、日本が緑茶を買うのだと思っていたのですが、そうはいかなかったのです。詳しい事情は知りませんが、日本の本社がスリランカで生産された緑茶を買って支援することはありませんでした。とりあえず、緑茶の在庫をどこかに売るというのが私の仕事になりました。

 支社長は、茶園を所有して、紅茶と緑茶をつくり、ブローカーをもって、輸出もしたいと、お茶の生産から流通、輸出まで、すべて自社でやりたかったようです。ですから、意欲としては素晴らしかったのです。私にとっては運が悪く、ブローカーは機能しませんでした。もし、事業を開始していたら、ナンバーワンではなくても、2番目か3番目くらいのブローカーにはなっていたと思います。当時は私自身を信頼してくれる顧客が多かったので、それまでの私の経験からして、うまく行っていたと思います。

 私がブローカーとしてどうやって顧客を得ていったのか、ですか? これは私が答えるのは難しい質問で、私の顧客に聞いてもらったほうがいいかもしれません(笑)。まず大切なことは、顧客である生産者たちとどのように接するかです。オークションで紅茶の入札を指揮するときには、買い手からの反応をよく見ます。販売のコツをわきまえているブローカーが、買い手の反応を見ながら売ると、若干高い価格で売れることがときどきあるのです。つまり、ブローカーの売り方によって、オークション価格は多少上下するのです。オークション価格を少しでも上げるためには、知識や経験が必要ですし、買い手を待たせずに小気味よい早さで入札を指揮することも重要です。オークション価格が低迷しているときには、一定水準まで引き上げるために、買い手たちを刺激したり、できるだけ高く売れるように促すなど、コツというものがあります。ブローカーの収入は、オークション価格の1%の手数料です。ですから、オークション価格が高ければ、生産者もブローカー自身も利益が多くなるのです。もし私が売り方が下手だったら、顧客を掴めなかったでしょう。

 紅茶の魅力は、まず仕事としてとてもおもしろいです。また、毎日毎日違う紅茶と出会えるので、それらを販売するのはおもしろいです。買い手に買ってもらうときには、正直に販売しなくてはなりません。買い手から尊敬されるようになれば、ビジネスもやりやすくなります。ブローカーに勤務していたときは、私はほとんどすべてのカタログを販売していました。また、最初からすべての仕事に携わっていました。在庫管理、テイスティングの準備、レポートの執筆など、すべてやっていました。数百カップのティーテイスティング用の紅茶を淹れることも、入社直後に担当させられました。研修中は特に、どんな小さな仕事もすべてやった方が勉強になります。

 その日本企業のスリランカ支社には、事後処理のために約2年半、02年6月まで勤めていました。主な事業の清算が終わると、私がいつまでもその会社にいても意味がないですし、今、勤めているスタンダードティートレーディング社から何度も声がかかったので、02年7月に入社することにしたのです。もちろん、転職するたびに給料は上がっていきましたよ。そうでなければ、転職しませんから。


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